デザインを批評する際に芸術を引き合いに出すことに対する私見。

芸術とデザインに関する考察
芸術とデザインに関する考察

久しぶりの更新で、いきなり面倒なテーマですが…。下書きは3月でして、それなりに寝かせた内容ではあります。

毎度のことですが、個人的な考えを述べているのであって、世の中の定義を覆そうとかいう訳ではありません。ただ、違う見方や状況が存在することを示せれば御の字という程度です。

デザインと芸術

時々「デザインは芸術であってはいけない」というような言葉を目にします。具体的には以下のような感じでしょうか。

  • 芸術は自分のために。デザインは顧客のために。
  • 芸術は自己表現。デザインは問題解決。

この言葉の意味することは理解できますが、その根拠や言葉の使い方には否定したい点が多々あります。

敢えて極端に書きますが、このような比較をする場合に引き合いに出す芸術に対して知見は十分なのでしょうか?「誰かが言った」「デザインの専門書に書いてある」などの言葉や内容以上の理解をされているのでしょうか?

なお、芸術の定義自体がうまくできませんので(比較している方は当然できているのでしょうね)、以降は私の経験分野である絵画を基本とさせていただきます。

芸術の範囲と機能

結論から言えば、

芸術とデザインは対比できない

です。2者の明確な比較は非常に困難だと考えています。

なぜなら、絵画や彫刻、演技、音楽、インスタレーションなどなど、芸術のどの分類であっても、基本的には制限がないからです。そして、誰のためにどのようなものを何の目的で表現しようともかまわないからです。

芸術の中には「私を見て!」という強烈な自己表現もあります。恐ろしいほどに利己的で、他を圧倒するぐらい主観的なものです。ですが、それだけではないのです。

デザインと比較される場合には、こういった何となくイメージされる側面しか考慮されてないのではと、思っています。

絵画の歴史と役割

かなり荒いまとめ方になりますが、絵画の役割についての例を挙げてみます。恣意的なまとめ方になっていますので異論があるかと思いますが、他に書きようもありませんので…。

記録を残すという役割

美術の教科書の冒頭あたりは、大抵はラスコーの壁画が出てくるかと思います。

この壁画自体、その意味や役割は推測するしかないのですが、一般的には狩りの様子を記録したものという理解ではないでしょうか?これを絵画と言っていいのかは微妙かもしれませんが、1つの見方として『記録する』という目的があります。

知らしめるという役割

具体的に書かれることはあまりないかと思いますが、肖像画というものもあります。

当初は権力者の権威誇示が目的です。それゆえに、肖像画は威厳に満ちて華美であり、威圧させるような印象を与え、権力者が誰なのかを『知らしめる』目的があります。通常は依頼(命令)に基づいて作成されますので、顧客のための絵画です。なお、時代が下るとまた違う意味合いも出てくるとは思います。高名な画家に描かせることが一種のステータスになる場合もありますので。

教育するという役割

教科書を読み進めると、宗教絵画が出てくるかと思います。キリストや聖母マリアなど、日本人でも知っているモチーフが多いですね。

この宗教絵画はどういうものなのかと言えば。文字が読めない民衆に聖書の内容を教えるための絵でした。つまりは『教育』という目的があり、布教対象の民衆のためのものです。それゆえに決まり事も多く、天使や聖人の頭には光背が必要などの決まり事ができあがっています。一目見て「絵の中のこの人は誰だ」と分からなくて、民衆に聖書の内容を理解させることができませんから。

一言で言えるものではない

以上、やや無理矢理機能的側面を取り出してみました。ここで言いたいのは

自己表現だけが絵画ではない

という点です。もっと言えば、この例示内容とは違うものも挙げることができるはずで、それほど多くの側面を持っている訳です。

それでは、これらの事柄を考慮した場合。絵画には「顧客のため」や「問題解決のため」という要素はないと言い切れますか?個人的には、とても言い切れないと思うのですが。

芸術とデザイン

芸術とデザインで何が違うのか?そもそも比較が難しいという主張ですので非常に悩むのですが、少なくともデザインに関しては以下のように考えています。

「デザインは特定方向に特化している。」

有り体に言えば、芸術自体がデザインを含んでいます。もっとも、内包しているという単純なものではありませんが。デザイン自体も非常に定義し辛いためです。

例えば、「計画」もデザインです。計画も表現の1つといえるでしょうが、これらが芸術に内包されるのかは判断がつきません。

この意味では、デザイン自体を定義することなく比較しようとする場合があることが理解できません。比較対象双方の範囲が広く、制限の掛け方でどうとでも恣意的に区切れてしまうのですから。

芸術を引き合いに出すこと

「そんなことを言っていたら話が進まない」と思われる方もいらっしゃるでしょう。

そのご意見には、ごく単純な返答ができるかと思います。つまりは「話を進めたいなら比較に使うべきではない」ということです。他の例示や比較、伝達の方法を検討した方がよいかと思います。

経験からの私見

冒頭で「私の経験分野である絵画」と書きました。そこだけ読むと根拠も何も分からないので、私自身の立ち位置や背景を説明させていただきます。

私は芸大出身で、先攻は油彩の抽象絵画です。そこでは主観的表現の追求と同等に、客観的視点も重視されていました。「私が美しいと思うもの」を描いて終わりではないのです。

一例を挙げますと、作品の講評会というものがあって講師や生徒から批評を受けます。「この色の意図がわからない」「この形に必然性がない」「主題が見えない」「あの作品と似すぎている」「このテーマなら絵ではなくて写真でいいだろう」などなど。

最善は「言わずとも作品を見れば伝わる」でしょうが、そんなものは簡単には作れません。だから、ある程度は言葉で説明しなければなりません。説明を返せない、あるいは納得させられないならば、その絵には根本的な問題が残されているということです。

だからこそ他者に評価される作品を作る場合には、いわば「自分を見つめる自分」という意識が必要になります。客観性を持つことで自分以外の人の批評を想定し、作品の完成度を高めるのです。

矛盾を包含

もっとも、全く違うアプローチをとる場合もあります。

製作中ひたすら没入し、一度も客観性を意識しない。にも関わらず、誰もが納得する作品を仕上げることができる人もいるのです。

何かしらの手法や方法論はガイド的なもので、それを利用するしない、あるいは利用した上で壊すなども選択可能です。その意味では結果勝負であり、作品が認められるかどうかにかかっていると言えるかもしれません。

結び

この記事は長文の割に個人的経験や見解によりすぎていると思います。結局の所、私が見ている側面からのという制限もありますし。

ですがそんな偏狭な前提からですら、引き合いに出される言い回しには賛同しかねる訳です。結論などは既に述べていますが、もっと砕けた物言いで表すならば。

「芸術なんて幅広いものを引き合いに出してどうするんですか?」

ということです。「芸術家じゃないんだから」という言葉が成り立つだけの説明ができればよいとは思いますが…。簡単に言えるものではないのでは?

追記:主観的なだけのデザインについて

この記事では、主観的なだけのデザインを否定も肯定もしていません。どういう過程であっても、できあがったのもが顧客の利益になったならば、それは仕事として成立したのだと思うからです。

もっとも、主観的なだけのデザインで成果を出すことは非常に難しいことでしょうし、実現できるのかはわかりませんが。ですが、可能性として否定できないというのが私の考えです。

この記事の内容とは少しずれますが、他を顧みなくとも圧倒的な「かっこよさ」や「きれいさ」などにも力があります。と同時に、見た目にまったくデザイン性が感じられなくとも無力ではないということもいえると思います。

結局のところ、大抵の物事は両極端の状態を内包しているのでしょう。これは別に芸術やデザインにとどまるものではありません。「業界の異端児」的な経営者がセオリーを破っている実例を鑑みれば、多くの事柄に当てはめることができると思いますので。

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